前回の続きですが、同文書は次の二通です。
1.慶長二二(1608)年正月11日付で、「吉右衛門」以下7名が署名・花押をして「三右衛門殿」・「左介殿」宛提出したもの。
内容は、禁中(御所)の「かへぬり」工事を遅滞なく行なう旨の誓約書です。
2.「壁御大工藤井三右衛門(尉)」が「かへぬり惣中」宛に「仰せ付けなされ候御用事、相違なく相守る可き」ことを指示したのに対し、元和二(1616)年五月吉日付で「京中壁塗」延べ九三名が署名花押もしくは押印した請書。
宛名は「御棟梁藤井三右衛門殿」となっています。
右の二通はともに豊田家に原文書で保存されていたもので、かつ年代は8年しか隔たっていないので、両者に共通して現われる(藤井)三右衛門は豊田家にゆかりのある同一人物であった可能性が強い。
さて1は慶長13年に始まったいわゆる「慶長度内裏造営」に関連したものと思われ、七名の署名者は当時の京都の有力左官業者で、禁裡御用を許されていたものでしょう。
署名・花押ともなかなかの達筆で、相当手広く事業を営んでいた形跡が窺える。
2の「仰せ付けなされ候御用事」がいかなる内容であったか具体性を欠き、あるいは主文の欠落とも考えられるが、しかし指示と請書が一紙でつづいているので、むしろこれは一般的な規則遵守の注意・誓約と見た方が当っているかもしれない。
いずれにせよ、この資料からは当時「かへぬり惣中」なる組織が存在し、これが「京中壁塗」を網羅したものであって、その構成員は90名内外に達し、「壁御大工」または「棟梁」と呼ばれる人によって統轄されていたことを知る。